私が産まれた家~絶対的貧困から暴力の虐待~

未分類

物心ついた頃から貧乏だった。普通の貧乏ではなく食べるものに困るレベル。

服を買ってもらったこともない。食べ物が買えないのに服どころではない。

両親は揃っていた。2歳年上の姉と7歳年下の妹。3姉妹の真ん中が私だ。

母親は食品工場のパートと印刷会社のパートを掛け持ち。父親はひどかった。大手電機メーカーの会社員だったが姉が産まれる前に会社を辞め、親の出資で商店を始めた。エリート営業マンで成績も良かった父も元がだらしないのか仕事そっちのけで賭け麻雀やパチンコに明け暮れていた。商売は開店休業城状態だ。当たり前だがうまくいかない。私が物心ついた頃には借金だらけになったのだ。

生活が上手くいかないから、両親はいらだっていた。米・醤油も買えずに父実家からもらってきて生活していたのだから仕方がない。

生活が上手くいかないと当たるところは子供だった。

いつも私は叩かれ、怒られ、どつかれていた。主に怒られたのは母親に、暴力は父親に。父は母にも容赦なかった。口答えなどしない母に物を投げ、頭を殴り、顔を風呂の湯につけた。頭を鷲掴みにされ風呂に入れられたときは本当に死んだと思った。

父親が商売をたたみ、元の大手電機メーカーの工場勤務になった。3交代制だ。父親が家に帰ってくるのが怖くて、父の車のエンジン音が聞こえると慌てて広げていた本や工作を(隣の新聞店経営のおばさんがくれたチラシでお店屋さんごっこをよくしていた)しまい、必死の形相で隠れた。機嫌が悪いと足で蹴られるからだ。

父が家に帰ってくると、夕飯がでる。父の分だけ。私たちはパンの耳(パン屋でタダでもらってきたもの)や醤油掛けごはん。量も少なく、寝る前には空腹で耐えられなくなる。そこへ父が帰ってきて、刺身やするめなど当時の私からしたら豪勢なご飯が出てくるのだ。当時3歳~5歳、保育園児であった私はにおいにつられて父の前に出て行ってしまう。ここでも頭を叩かれ手を叩かれ、欲しいと思うことは悪い事であると教えられた。遠くから見ているだけでも、強欲な子、と罵られた幼少時代だった。

虐待された子は親を庇うという。母は子に食べさせられなくても父には豪勢な食事を用意した。そうしないと母が暴力を受ける。母がいなかったら私たち姉妹は飢え死にするだろう。父の給料は全て借金返済に消え、母のパート代も半分は借金返済、本当にわずかに残るお金で生活していたのだ。

母の寝ている姿を見たことがない。朝は誰より早く起き、2つ仕事を掛け持ちし、家に帰ってきて印刷会社からもらってくる内職をする。この内職を手伝うと母は上機嫌になる。その時だけが母が優しくて嬉しくて私はよく内職を手伝った。

でも、人間お金がないと苛立つ。幼い私にはわからない理由で母は急に機嫌が悪くなり包丁を持ち出し何度か刺されそうになった。母も辛かったのだろう。

母という人間も苦労している。出産後実母が結核ですぐ離され数か月後に死亡。田舎の親せきの家で育てられた。実父は菓子店を経営していたが大きくもない自営業で、母が小学生になると手伝いができると引き取り、朝4時から夜11時まで手伝いをさせたという。引き取られた時には継母と妹がいて、妹の世話・その後生まれる弟の世話から母が28歳になり菓子店を畳むまで給料なしでこきつかわれたらしい。菓子店を畳むと言われ、3日後に追い出され行くところがなく元の親せきの家に電話し、迎えに来てもらいアパートと工場の仕事を紹介してもらったと。人生で一番楽しかったのは自分のお給料をもらえたことだと言っていたのを覚えている。

そんな父と母の間に産まれた。

私の小学校入学の健康診断の記録はわずか16kgだった。

コメント

タイトルとURLをコピーしました